ブックタイトルshiniya-yamanasi-201810
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双葉バイパス県道6号線船形神社妙善寺一橋陣屋跡泣石レンガ造りのトンネル 光照寺船形神社の石鳥居JR中央本線塩崎駅やまなし歴史散歩塩崎駅周辺の史跡を散策平成30年10月1日発行 富 士 の 国 シ ニ ア 山 梨 だ より 秋号(10)わたしたちは、山梨県老人クラブ連合会を応援しています。 JR中央線塩崎駅周辺には、武田氏に関わる伝説が残る泣石、国指定重要文化財である光照寺薬師堂など多くの歴史的建造物や史跡が残る。塩崎駅を起点に気軽にゆっくり歩いても3時間ほど。意外に知られていない身近な歴史や伝説を学ぶのも楽しい。 塩崎駅南口を出て左に曲がり県道を中央線沿いに甲府方面に進む。左手に見える大きな石が「泣石」だ。天正10(1582)年3月2日、武田勝頼は完成したばかりの新府城に自ら火を放ち、岩殿城(大月)を目指して落ち延びた。途中、北条夫人が、振り返って新府城の方角を見て涙したと言う伝説が残されている。かつては現在地より約100メートル南東にあったが、線路にかかることから移設された。 塩崎駅に戻って線路の下をくぐり北口に出る。中央線沿いを西に歩き、国指定の重要文化財の薬師堂がある光照寺に向かった。右手のやや上がった場所にある。もともと団子新居にあった光照寺は、永正7(1510)年に武田信虎によって岩森村坊沢に移されてたいへん栄えたとされる。しかし新府城が落城し武田氏が滅亡した際、織田軍に火をかけられたが、この薬師堂だけが焼失を免れた。その後、江戸時代初めに現在地に移された。薬師堂は、室町時代後期の建築様式が特徴的な重厚感のある建造物だ。4月の第1日曜日に行われる祭典ではお堂が開帳される。春は境内の桜が美しい。 中央線沿いの道路に戻り西にしばらく歩く。左手に見えてくる中央線開通当時に造られたレンガ積みのトンネルをくぐり進むと、右手に妙善寺、左手には甲斐市指定史跡の一橋陣屋跡の説明板が出てくる。延享3(1746)年、八代将軍徳川吉宗が四男一橋刑部郷宗尹に十万石を与え、このうち約三万石の領地が巨摩郡にあった。その陣屋(代官所)がこの地に7年間置かれた。陣屋は宝暦3(1753)年、河原部村(韮崎市)に移された。 この後、県道に出て左折し船形神社に向かう。左手に県指定有形文化財である石鳥居を見る。「甲斐国志」によると、古くは釜無川沿いに崩壊した古墳があり、そこに神社があった。崩れた古墳の石室が舟のように見えたことからその通称は「船形神社」といわれるようになったという。石鳥居は応永4(1397)年に建立された。度重なる洪水のため江戸時代に神社は現在地に移され、鳥居もこの時代に移転したとされる。ここから再び県道を歩いて塩崎駅に戻った。燃える新府城に北条夫人が涙焼失を逃れて現在地に移設県文化財の石鳥居泣石光照寺薬師堂船形神社の石鳥居一橋陣屋跡の説明板 レンガ造りのトンネル。上は中央線