shiniya-yamanasi-1306

shiniya-yamanasi-1306 page 9/12

電子ブックを開く

このページは shiniya-yamanasi-1306 の電子ブックに掲載されている9ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
駿河湾吉原大宮上井出本栖湖古関右左口富士山甲府中道往還河内路若彦路鎌倉街道やまなし歴史散歩 山梨の歴史について取り上げていくコーナー。今回は、甲斐と駿河を最短で結んだ中道往還を取り上げる。わたしたちは....

駿河湾吉原大宮上井出本栖湖古関右左口富士山甲府中道往還河内路若彦路鎌倉街道やまなし歴史散歩 山梨の歴史について取り上げていくコーナー。今回は、甲斐と駿河を最短で結んだ中道往還を取り上げる。わたしたちは、山梨県老人クラブ連合会を応援しています。(9)夏号富士の国 シニア山梨だより平成25年7月1日発行 中道往還は、甲斐と駿河を最短の20里(約80㌔)で結ぶ道。同様に甲斐と海とを結ぶ若彦路、河内路の中間に発達したことから「中道」と呼ばれた。 古くから海で採れた魚や貝、塩を運ぶ輸送路として、また軍事用道路としても重要な役割を担ってきたという。 中でも右左口宿(現在の甲府市右左口町)は、当時の面影を色濃く残している、中道往還の代表的な宿場町。徳川家康によって整備されたという。 道の幅は4・5㍍で、両側に水路がある。1軒の間口は4間2尺(約8㍍)に分けられ、奥に80㍍ほど広がる造りを持った屋敷割がされたという。改築されている家もあるものの、ほぼ往時の屋敷割がそのまま残されているという。 右左口宿の入り口にあたる下宿信号の脇には「厄除地蔵」が鎮座している。1700(元禄13)年に作られており、自分の体の悪い部分と、地蔵の同じ部分を石でたたくと痛みがなくなると言われているため、各所にへこみが見られ「カンカン地蔵」とも呼ばれている。 中宿の方向へゆるやかな坂道を登っていくと、左手に「御左口神社」がある。かつて栄えた豪族の居住跡であり、この地に農業や養蚕を伝えた珊瑚珠姫が祭られている。地域では「御左口さん」と呼ばれ、右左口の名の始まりとも言われている。地域の守り神として住民に親しまれており、現在も12月3日の祭りや、新年の互礼会が開かれているという。 右左口バス停から10分ほど歩くと、民家の敷地内に今もこんこんと水の湧き出る泉がある。「泉家の泉」だ。泉は3つに区切られ、飲み水や洗い物など、地域の人々の生活用水として重宝されていた。この水は、徳川家康に献上されたともいわれている。 上宿に入ると「迦葉山敬泉寺」がある。1605(慶長10)年建立。瓦には葵の紋が刻まれ、徳川家との深い関係が推察される。昭和天皇が皇太子時代にこの地を訪れた際、休憩をしたことを示す碑も建てられている。 同寺の入り口には「宝蔵倉」があり、古くから同区の宝である「徳川家康朱印状」や、「右左口浄瑠璃人形」が大切に保管されていた(現在は県立博物館に寄託)。 その隣にあるのは「二獣三猿金剛像」と「六地蔵附厄除地蔵」。下宿の厄除地蔵とともに、右左口宿を守っているといわれている。周囲の六地蔵は、元禄9(1696)年の銘がある古い木造だが、2体が盗まれて今も行方が分かっていない。 宝蔵倉の東隣は、日本を代表する歌人「山崎方代の生家跡」。24歳でこの地を離れても古里を思い、望郷の歌を数多く残した方代。中でも代表的な『ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村』が、歌碑に刻まれている。 そばには1582(天正10)年に徳川家康が甲斐に入国した際、1週間滞在した仮御殿跡の「東照神君御殿場跡」がある。晴れた日には甲府盆地と、その向こうに八ケ岳が望める。この地に立ち、家康が見たであろう景色に思いをはせてみるのもいい。 甲府精進湖線の右左口トンネルの脇から中道往還の旧道に入る。現在は幅1㍍あるかないかだが、当時は100㌔以上の荷物を背に付けた馬と馬方が往復した道。歩きやすいように、石畳の敷かれた箇所もある。険しい山道だったため、当時は転落事故などで命を落とす人や馬も多かったという。その供養と道中の安全を願って置かれた馬頭観世音像や如意輪観世音像が、今も多く残されている。 山道を15分ほど登ると、「強清水」がある。トンネルの開通により湧き水は絶えてしまったが、「親孝行な息子が父親のためにこの水を汲んでいったところ、おいしい酒に変わっていた」という、親子愛を語る伝説が残る。 さらに先へ進むと甲府盆地を一望できる右左口峠を通り、旧上九一色村へと続く。右左口宿御左口神社敬泉寺山崎方代生家跡旧道入り口下宿の厄除地蔵