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富士の国シニア山梨だより夏号(8)平成24年7月1日発行わたしたちは、山梨県老人クラブ連合会を応援しています。「『きみさん、今日はデイサービスだから、三日月屋のおばさんって言わないよ』ってデイサービスに勤....

富士の国シニア山梨だより夏号(8)平成24年7月1日発行わたしたちは、山梨県老人クラブ連合会を応援しています。「『きみさん、今日はデイサービスだから、三日月屋のおばさんって言わないよ』ってデイサービスに勤務する近所の子が言いましてね」とお嫁さんが笑顔で話す。三日月屋とは、高村きみさんが女手一つで築いた商店だ。きみさんの50年前は、「三日月屋のおばさん」とご近所から愛され、商店を切り盛りする日々であった。しかし、商店「今日は朝から戦争のことを思い出してね」と語りながら守屋アキ子さんは現れた。「おばあちゃんはロングスカートが好きなの」とお嫁さんがおしゃれな一面を紹介する。アキ子さんは、八王子の元横町で機織りをしていた。「『アキちゃんをお嫁にもらうと働いた分みんな食べちゃうね』と言われましてね」と笑いながら話してくれた。23歳で上野原に嫁ぎ、27歳の時、ご主人に赤紙が届いた。「役場の人が震える手で赤紙を持ってきたのを覚えています」と語る。ご主人が不在の4年間は困窮を極めた。ご主人が帰還すると、守屋製作所を立ち上げた。アキ子さんの50年前は、この守屋製作所の営業活動に没頭した時期であった。アキ子さんや娘さんたちが営業を担い、時には東京へ通っていた。「おかげでこれ(お酒)もが軌道に乗るまでの道のりは険しかった。きみさんは、19歳の時に母を亡くし、22歳で出身地の御殿場から母の故郷である山中湖村に嫁いだ。3人の子を出産し、これから、という時期にご主人が他界した。「37歳の時に主人が亡くなって。7カ月、7歳、12歳の子どもを抱えて、死にもの狂いで商売をしましたよ。米は1キロ1円、鰆が30円。販売許可を得るために苦労してね。でも、この辺りには企業の保養所が多くて、ビールが良く売れた」と鮮明に当時を振り返る。商店開業から63年。現在は、デイサービスに週3日通い、出された宿題はその日のうちに片付ける。新聞を半日かけて読み、構想通りにマフラーを編む。「自分で順々に仕事を見つければ一日はあっという間に過ぎるよ」と活動的だ。家族の事を尋ねると「ひ孫がとてもかわいいねぇ!毎朝新聞を持ってきてくれるだよ」と目を輝かせて話してくれた。今年は、またひ孫が誕生する。きみさんの101回目の誕生日は更なる喜びの日となるに違いない。冬に向けて編んでいるマフラー覚えましたよ」とユーモアたっぷりに教えてくれた。現在は、デイサービスを利用している。「利用者に算数の先生がいて、計算の問題を解いています。いつも百点ですよ。皆さんがなんだか大切にしてくれましてね。歳をとっても若いうちも。そのかわり人様のことを言ってはいけない」と誠実な人柄を覗かせた。守屋家はとにかく明るく健康的だ。88歳で骨折した時も骨密度が高いとお医者さんに誉められたそうだ。よく食べ、よく笑う。これがアキ子さんの健康の源なのかもしれない。デイサービスで季節の工作計算テストは毎回95点以上昔の三日月屋商店と昨年亡くなられた息子さんお嫁さんと一緒に昭和37年9月18日?に「山梨県老人クラブ連合会結成老人福祉大会」が当時の山梨県民会館で行われ「山梨県老人クラブ連合会」が発足した。50年前の出来事である。今から約50年前、山梨県内では、石和温泉の発祥でもある「青空温泉」のブームや河口湖畔に県内初のボーリング場、富士急行のスケート場が完成したり、「ボロ電」の愛称で親しまれた山交電車の廃止、富士山にレーダー建設を開始した年であった。今回は、明治から平成と目まぐるしく変わる世の中を明るくたくましく生きてきた満百歳の女性2人に50年前や自分の半生を振り返り、お話を伺った。守屋アキ子さん明治44年10月30日生(満百歳)上野原市県老連50周年記念50年前、あの頃のわたし高村きみさん明治45年1月30日生(満百歳)山中湖村元気百歳!舞鶴陸橋付近