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わたしたちは、山梨県老人クラブ連合会を応援しています。平成24年10月1日発行富士の国 シニア山梨だより秋号(8) 糸と針でハンカチを綺麗に縫い上げると、「よかったらどうぞ」と私に1枚手渡された。温かさがに....

わたしたちは、山梨県老人クラブ連合会を応援しています。平成24年10月1日発行富士の国 シニア山梨だより秋号(8) 糸と針でハンカチを綺麗に縫い上げると、「よかったらどうぞ」と私に1枚手渡された。温かさがにじみ出る、優しいことばが嬉しくて、思わず涙が出た。 保坂けさのさんは、甲府市上積翠寺に4人兄妹の末娘として誕生した。幼い時に両親は他界し、長兄と姉が、親代わりとして育て上げてくれた。小学校を卒業し、県内外の製糸工場で一生懸命働いた。 昭和8年保坂勝さんと結婚し、3男2女に 斉藤家には、木々や草花が至る所に咲いている。「一つ一つに思い入れがあるのよ」と、奥様が教えてくれた。 竹利さんは、韮崎市中田町の生まれ。昭和7年、20歳の時に東京の鉄道郵便局に勤めた。 昭和16年に奥様と結婚し、同年の7月に第二次世界大戦の召集があった。関東軍に入隊する予定であったが、入隊前に解除になった。 東京の目黒に住み、東京空襲を経験した後、帰郷、塩尻局の管理主任に就任する。 「郵便車に乗って、常磐線では平(現・いわき駅)まで、東北本線は郡山。信越本線では、新潟や横川。東海道本線に乗っていた時は仕事量が多く大変だった。色々な所に行っただよ」と話す。 昭和56年には叙勲7等を授与した。 退職間際の昭和62年に眼底出血を患うも、斉藤さんを辞めさせる恵まれた。 しかし、昭和17 年に勝さんが出征、昭和22年にシベリアで帰らぬ人となる。 絶望の淵にいたけさのさんを救ったのは、勝さんとの思い出だった。「主人と柿の木の下で休んだり、仕事の合間に皆で柏餅を食べたのが幸せでしたよ」と、ささやかな幸せを語る。 子どもたちの支えもあり、苦労しながらも家を切り盛りした。「子どもたちが立派に育ち、歳を取ってからは本当に楽をさせてもらってます」と笑う。 同席した次男の中さんから、三男の守さんがけさのさんの手記を出した事を聞いた。 平成14年夏、母や兄たちに代わり、父の戦没者慰霊祭に出席した守さん。母の偉大さをその時改めて感じ、後生に伝えたいと手記を書いたという。 追い求めた「家族の幸せ」を実現し、現在では、ひ孫までの大家族がけさのさんを取り巻く。今後もこの幸せは続いていくだろう。訳にはいかないという同僚の声から、甲府分局で働く事となった。真面目で熱心に働いてきた仕事ぶりを示す、エピソードだ。 現在は、奥様と二人暮らし。今年で結婚71年目を迎える。金婚式では、北海道に行ったエピソードも話してくれた。「退職後は、地域のげんき会での会合やテニス等のスポーツをしてね。今では年1回の家族での遠出が楽しみ」と話す。竹利さんの旅は、まだまだ続いていく。奥様と仲良く当時の郵便車一本一本思い出のある木々ひ孫さんと一緒に若い日のけさのさん(左)大家族集合三男・守さんによるけさのさんの手記 明治の御代が終わり、大正が幕を開けた百年前の山梨県では、その前年に恩賜林が御下賜され、中央線が名古屋まで開通した。その時、山梨県南アルプス市で生を受けた斉藤竹利さんは、鉄道郵便局で働き、各地を郵便車と共に旅をした。また、甲府市の保坂けさのさんは、県内外の製糸工場で働き、嫁いだ先では農家を営み、子ども5人を育て上げた。激動の時代を生き抜いた2人の半生をインタビューで振り返る。斉藤 竹利さん明治45年2月9日生(満百歳)南アルプス市県老連50周年記念50年前、  あの頃のわたし保坂 けさのさん明治45年2月28日生(満百歳)甲府市元気百歳!昭和39年、富士スバルライン開通